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風傳流鑓術

注・・・赤字は、解説あるいは単なるツッコミです

風伝流槍術について

(文中敬称略)

当流は、中山源兵衛吉成が竹内流槍術を基に開いた槍術流派である。全長1丈2尺(約3m60cm)の素槍を遣う。
*中山吉成が修行した竹内流槍術は竹内藤一郎則正が開いたと伝えられる。竹内則正の名字の「竹内」と通称の「藤一郎」から、「藤一郎」の通称を受け継ぐ、現存最古の柔術流派として知られる竹内流捕手腰之廻の竹内家との関係を思わせるが、竹内流捕手腰之廻の系譜に竹内則正の名は無く、風伝流槍術の伝承でも竹内則正については伝わっておらず、両者が関係あるかどうかについては不明である。

 吉成の父の中山角兵衛家吉は、竹内京八郎正家より竹内流槍術を学んだとされる。家吉は、元和5年(1619)〜7年(1621)の間、安藤重信(高崎藩主)に、次いで、寛永17年(1640)まで小笠原政信(関宿藩主)に仕え、竹内流槍術の達人であったと伝えられる。吉成は、父が安藤家もしくは小笠原家に仕えていた期間に生まれたとされ、父より竹内流槍術を学んだ。
寛永17年(1640)、小笠原政信の死とともに、中山家吉と吉成の父子は小笠原家を辞し浪人となった。
 その後、中山吉成は松平直良(越前大野藩主)に2百石で仕え、家老の娘を妻に迎えた。延宝6年(1678年)、松平直良の死とともに浪人となり、父の中山家吉が井伊直興(彦根藩主)に仕えていたので、近江(滋賀県)の彦根で槍術を教えて生活した。井伊家の家臣が多く入門したと伝えられる。その後、江戸に移った。
*中山吉成が井伊家に仕えていたとされることが多いが、井伊家に仕官できなかったとも伝えられる。中山吉成が彦根時代に井伊家に仕えていたとすると、井伊直興の没年は1717年(1701年に一度隠居しているが)であり、吉成は1667年から戸田家に仕えている(後述)ことから、主の死とともに浪人となり次の主を探すことを繰り返す生涯を送った吉成が、井伊直興に対してのみ生前に去ったことになる。また、江戸時代の文献にも、中山吉成について「彦根御家中(井伊家のこと)中山角兵衛嫡子」と書いてある物もあり、この記述に従えば井伊家に仕えていたのは父の中山角兵衛家吉ということになる。井伊家に仕えていたのは父の中山家吉で、中山吉成ではないと仮定すると、主の死とともに浪人となり次の主を探すことを繰り返したということと矛盾がなくなるので、ここでは吉成の父の中山家吉が井伊家に仕えていた事が誤って、中山吉成が井伊家に仕えていたと伝えられた、と解釈した。
 寛文7年(1667)より、戸田氏信(美濃大垣藩主)に仕えたが、天和元年(1681)、戸田氏信の死とともに、また浪人となった。戸田家を辞した後は、美濃(岐阜県)不破郡の岩手を領していた竹中重高(交代寄合・美濃岩手領主)の援助で美濃にいたという。
 かつて仕えた松平直良の子の松平直明(明石藩主)が、吉成が浪人していることを知り、天和2年(1682)、松平直明に招かれたが吉成は老齢を理由に再仕官を固辞したため、明石藩の客分としての待遇で播州(兵庫県)明石に移った。父の中山家吉と同じく、仕えていた主の死とともに浪人となり次の主を探すことを繰り返して各地に移った吉成だが、明石が最後の地となった。明石でも槍術を教えたため風伝流は幕末まで明石藩で伝えられたが、貞享元年(1684)、吉成は明石で没した。墓は兵庫県明石市人丸町の月照寺にある。

 中山吉成が風伝流槍術を開いたのは、越前大野時代もしくは彦根時代とされる。吉成は、源流派の竹内流が1丈(約3m)の槍を用いていたのを、1丈2尺(約3m60cm)に延長した。風伝流の名前の由来は、固定した形が無い「風」(現代語では「空気」とする方が適当かも知れない)を槍術の理想とした事による。
また、吉成は、江戸時代初期の儒学者として有名な林羅山に風伝流槍術の由来を記した文の代作を依頼した。この時、羅山の代理で林鵞峰(羅山の子)が作成したのが「風伝流序」である。「風伝流序」は風伝流内部で伝書として筆写されて伝えられたほか、林鵞峰の詩文等を集めた『鵞峰文集』にも収められている。

 風伝流では、形を学んだ後に試合稽古を行うが、江戸時代後期には防具を用いて稽古していた。現存している大聖寺藩伝の風伝流槍術では、敵が突いてきた槍を刷り落とし、または巻き落とし、自分の槍で敵の面もしくは小手を打つ(突くのではなく)ことが特色である。

 江戸時代の間に風伝流は全国に広まり、幕末には、中山吉成が最後に住んでいた明石藩や、城下で槍術を教授した彦根藩だけでなく、仙台藩、長岡藩、越後高田藩、大聖寺藩、尾張藩、高須藩(尾張藩の支藩)、桑名藩、伊勢久居藩、紀州藩、津和野藩、豊前中津藩などの多くの藩に伝わっていた。
 この中で、紀州藩の風伝流槍術は、幕末の安政5年(1858)に、紀州藩附家老・水野家の江戸屋敷にて行われた、紀州藩槍術師範家(大嶋流・外山流)、薙刀師範家(月山流)の門弟と、紀州白子の風伝流槍術家の酒井縫殿右衛門の門弟との試合で、風伝流側が他流試合に不慣れな槍術・薙刀師範家側を圧倒した結果、紀州藩に採用されたものである。(同じ場で、伊勢田丸の柳剛流剣術家・橘正以の門弟が紀州藩剣術師範家の門弟を圧倒し、柳剛流剣術も採用された)

大聖寺藩伝風伝流槍術について
 現在伝わる風伝流槍術は、加賀(石川県)の大聖寺藩に伝わった系統である。この系統は開祖・中山吉成の弟子の丹羽重直に学んだ奥村助六家茂によって加賀に伝えられた。

 幕末期、多くの藩で他流試合が解禁されたが、北陸諸藩は他流試合を認めないままの藩が多かった。大聖寺藩でも他流試合は禁止されていたが、藩の風伝流槍術師範・橋本助六は何度も他藩からの修行者と他流試合を行い、その度に閉門処分を受けていたという。これについて橋本助六が、嘉永5年(1852)に他流試合を行うために来訪した、長州藩士の妙見自得流槍術家・三輪厳太に「今回も試合をすれば5度目の閉門処分を受けるだろう。しかし、10回でも閉門処分を受けてでも他流試合を行っていれば、段々と藩内の他の道場も他流試合を行うようになるだろう。今の世は他流と試合をしないようでは実用に耐えない」という内容を語っているように、大聖寺藩で他流試合が盛んに行われるようにするための行動だったようである。なお、この言葉通り橋本助六は5度目の閉門処分を受けた。

 明治に入り、風伝流槍術は消滅寸前となったが、大聖寺藩の最後の風伝流槍術師範である奥村助之進の弟の高橋寛が奥村家伝の風伝流槍術を伝えた。高橋寛は、旧大聖寺藩の武術を保存するために明治末期に設立された振武会で指導し、大正13年(1924)には、大日本武徳会より槍術範士号を授与された。
高橋寛は高弟の林平と共に、古伝の形以外に新たな形を編み出した。
*高橋寛が新たに制定した形の内、相手の槍を刷り落とし、地面から跳ね返った槍で今度は相手から刷り落とすことを交互に行う「綾」について、ある古武道流派の宗家(故人)より、稽古槍のタンポが床に着いて跳ね返る点について「槍の刃を地面に当てたら刃が傷むはずだ。あの形はおかしい」と批判する言葉を直に聞いたことがあるが、これについては刷り落としを交互に行う稽古法なのを、槍の刃が床に着いて跳ね返る部分を技と誤認しているものと思われる。
 高橋寛の死後、林平、守岡豊三らによって風伝流槍術の指導は続けられたが、戦時に入り指導が行われなくなり、風伝流槍術はまた消滅寸前となった。
戦後、金沢で開かれた自衛隊の銃剣道の試合にて、守岡豊三が槍術の妙技で銃剣道の選手を圧倒したことにより、再び風伝流槍術の入門者が増えたという。

 現在、この系統の風伝流槍術は、武心会を主宰する今西春禎が継承し、兵庫県宝塚市で二天一流剣術、戸山流抜刀術とともに指導されている。


<参考文献>
『日本武道大系』第7巻 1982年

村林正美「諸国武術修行者見聞記・文通録」
 榎本鐘司・村林正美・渡辺一郎 共編『仙台藩武術関係資料集』 1998年


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