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伯耆流居合術

注・・・赤字は、解説あるいは単なるツッコミです

伯耆流居合術について


 当流は片山伯耆守久安(1575〜1650)によって開かれた。
久安は通称を藤次郎といい、現存最古の柔術流派である竹内流の開祖・竹内中務大輔久盛の弟という説もあるが確証はない。
*片山家文書では、片山久安の父の片山藤八郎の先妻が再婚した家の孫が竹内久盛で、片山藤八郎と後妻との子が片山久安と伝えられている。
 居合の始祖・林崎甚助重信の弟子という説と、久安の伯父(父とする伝承もあり)・松庵より「古伝十八刀ノ抜刀」を相伝されたという説とがあるが、片山家に伝わっていた伝書類には林崎甚助の名を記したものは無く、松庵から学んだという伝承のみ記されている。
*現在では両方の伝承を合わせて「林崎甚助の伯父・松庵より秘剣を相伝された」という内容にしている師範もいる。
*松庵より伝授された「古伝十八刀ノ抜刀」については、「磯波」の形が古伝十八刀ノ抜刀の「猪園並」(イソノナミ)が元になっていると伝えられているのみで、それ以外は全く不明である。
その後、京の愛宕社に参籠し、「当たらざるの規矩」を伝授され「貫」の一字を示される夢を見て、流儀を開いたという。また、松庵より「古伝十八刀ノ抜刀」を伝授された後、竹内久盛と相談して、居合に組打(柔術)の奥儀を加えたという。

 関白・豊臣秀次に指南し、その名声は高く、慶長15年には、後陽成天皇の御前で「磯波」を天覧に供し、従五位下・伯耆守に叙任されたと伝えられる。
*但し、豊臣秀次の指南をしたことと、その技を天覧に供し伯耆守に叙せられたことを裏付ける史料は無い。
*「磯波」の前半部は、全日本剣道連盟居合(制定居合)の五本目「袈裟切り」の前半部のもととなったといわれる。


夢で示された「貫」字から「一貫流」と称したが、あまりこの名で呼ばれなかったようで「片山伯耆流」あるいは「伯耆流」という名が定着していった。(のちに片山家が代々住んだ岩国藩や長州では片山流剣術と呼ばれた)

 その後、安芸(広島県)に滞在し、浅野家の臣が多く入門した。浅野家中(広島藩)の弟子の中では大桑清右衛門が免許を得た。
元和2年(1616)、周防(山口県南部)の岩国にとどまり、領主の吉川家の客分扱いとして、十荷を給された。
その後、慶安3年3月7日、76歳で没した。

 片山伯耆守久安の長男・片山伯耆守久勝は、どういうわけか片山伯耆流を継がず江戸に出て片山心働流を開いた。
これにより、次男の片山伯耆守久隆が流儀を継ぎ、江戸に出て、晩年に岩国に帰り吉川家に仕え、片山家は岩国藩の剣術師家の一つになった。
久隆も名声が高く、世に「小伯耆」と呼ばれた。

 片山伯耆流の内容は、久安と久隆の二代で整えられた。
片山伯耆守が伝えた内容は、居合の中に剣術を含み、居合・剣術だけではなく小具足(組打・柔術)も伝えていた。
*片山伯耆守が竹内流開祖・竹内久盛の弟という説があると前にも書いたが、小具足の伝書の多くが『伯耆守撰竹内中務工夫組合〜』という題名であることから、片山伯耆流の小具足の内容は竹内流系のものであると思われる。
 片山伯耆流の内容の特異な点は、易学思想に拠って体系づけられていることである。
通常、日本の伝統武術は、密教思想(両部神道も含む)か禅か儒学思想あるいはそれらの折衷に拠って体系づけられている。
このような易学思想の影響が強い伝書は、他にあまり例を見ないものである。
 また、「居合の形は太平を祈願する祈祷行為でもある」という特異な思想を持っていた(岩国と長州藩以外の地域に伝わった系統には、あまりこの考え方は無いようである)。この考え方から、後に竹刀打ち込み稽古が広まっていった時期に、防具を甲冑の一種とみなして戦乱を象徴する物として忌避する考え方が生まれた。これが竹刀打込稽古を頑なに受け入れない一因となった。

 第四代の片山利介久義の代には、以前から自分の藩で片山伯耆守の残した流儀を学んでいた、熊本藩士・星野角右衛門(安永6年に来訪)と、広島藩士・岸源蔵(安永10年に来訪)が、それぞれ片山家を訪れ、短期間ではあるが、以前から学んでいた形の手直しと片山伯耆流の指導を受けた。(星野角右衛門と星野龍介については後述)

 第六代 片山友猪之介久俊に学んだ者の中に、直心自得流を開いた長谷川藤次郎友親や、のちに「岩国に錦帯橋と宇野あり」と謳われた宇野金太郎重義がいた。(ともに後述)
また、星野角右衛門の子・星野龍介実寿が岩国を訪れ、片山友猪之介と、その高弟から指導を受けた。
この久俊の代まで、片山家では形稽古と、居合台と呼ばれる打ち込み台を使った稽古のみで、竹刀・防具を使った打込稽古は行っていなかった。

 第七代・片山本蔵久寿の代の、弘化4(1847)年、岩国藩の藩校・養老館が設立され、竹刀・防具を使った打込稽古が採用されると、岩国藩の剣術師家のうち、桂家(新陰流)と筏家(愛洲陰流)は竹刀打込稽古を採り入れたが、片山家では前述の防具を忌避する考え方もあり頑なに形稽古を改めなかった。
 ただ、実際には、片山伯耆流の門弟で片山家に無断で竹刀打込稽古をする者が少なくなく、その中には他国に武者修行を行い、藩内で竹刀試合の強豪として知られていた長谷川藤次郎もいた。
 片山家が竹刀打込稽古を認めていない状況では片山伯耆流の門弟で竹刀打込稽古を行っている者を藩校での稽古や試合に参加させるのは困難なことから、藩は長谷川藤次郎ら竹刀打込稽古を行っている門弟を離門させるよう片山家に指示した。これによって、一挙に44名も離門したという。

 長谷川藤次郎はこの後、江戸に出て島田虎之助ついでその師・男谷信友に直心影流を学び、帰藩して直心自得流を開き藩校の師範となった。
 また、宇野金太郎は片山友猪之介と長谷川藤次郎に学んでいたが、長谷川藤次郎と一緒に江戸に出て島田虎之助ついで千葉周作に学び、帰藩した。流儀は長谷川藤次郎とは対照的に片山流のままだった。「岩国に錦帯橋と宇野あり」と謳われ、飛んでいる蝿を箸でつまんだ等の逸話を持ち備後浅野家や遠州掛川藩から剣術指南に招かれるほどであったが、 岡山藩士・奥村左近太(奥村二刀流の祖)との試合では、奥村の二刀(といっても竹刀だが)の前に敗れた。

 片山伯耆流はこの後も藩校でも形稽古を墨守していたが、全国的に竹刀打込稽古が広まっている時流に抗することはできず、また竹刀打込稽古をしない片山家の道場の入門者が減少していったことから、ついに安政元(1854)年、竹刀打込稽古と竹刀による他流試合を解禁し、翌年には片山本蔵久寿みずから九州に一年間、廻国修行に赴いた。
この久寿の代に明治維新を迎えた。

その後、第八代・片山武助久道まで伝えられたが、武助は伝承を断念し昭和19(1944)年に伝書を含む家伝の古文書を吉川報效会に寄贈した。これらの伝書等は現在、岩国徴古館に収蔵されている。

星野家での伝承

 現在伝わる伯耆流居合術は熊本藩の星野家に伝承されていたものである。(他の系統と区別するために伯耆流星野派とも呼ばれる)
この系統では、楊心流薙刀術・鎖鎌術と四天流柔術が併伝されているのが特徴である。
戦前より、熊本出身の大野熊雄や、同じく熊本出身で陸軍熊本幼年学校の元教官であった吉澤一喜が京都でこの系統の伯耆流を指導したことによって関西を中心に広まった。また、星野道場で修行した中崎辰九郎が大正時代に静岡商業学校の柔道教師として赴任したことにより、静岡県でもこの系統の伯耆流が伝えられている。

 熊本藩には片山伯耆守久安の弟子である浅見一無斎により伯耆流が伝えられていた。このため熊本では、片山家の第二代以降に形が整理される以前の開祖・片山久安が伝えたものにより近い内容が伝承された。
熊本藩では初代藩主の父・細川忠興(号・三斎)が居合に適した実戦的な刀装として肥後拵を考案したほど盛んであった。そんな中、熊本藩士・星野角右衛門実定は、江口喜内より伯耆流居合術の皆伝を受けた。角右衛門は、この他に堀田孫右衛門三寛より四天流組打(柔術)と楊心流長刀(薙刀術)・鎖鎌を、星野嘉右衛門実久より楊心流半棒術を学んだ。明和3(1766)年に、伯耆流居合術と四天流柔術の師役を、さらに安永2(1773)年には、楊心流薙刀術の師役も命じられ、居合・柔術・薙刀の三芸の指南をする身であったが、 安永5(1776)年、岩国に赴き、短期間(滞在日数11日)ではあったが片山利介久義に学んだ。
*前述したように、岩国の片山家に伝承された片山伯耆流には居合術と小具足があったが、角右衛門は伯耆流の小具足を学ぶ段階まで至らなかった。片山家に伝えられていた『星野記』(角右衛門の岩国留学の記録)を見る限り、短期間(『星野記』によると実際の稽古日数は3日)ということもあって、角右衛門が岩国で学んだ内容は、目録段階にも至っていない。

 角右衛門は熊本に帰ったのち、それまで自分が熊本で伝えていた内容に片山家で伝承された形を採り入れて教えた。
*いうまでもないことだが、これ以前から熊本藩には浅見一無斎以来の内容を伝える伯耆流が存在した(熊谷派、野田派など)。片山家で伝承された形を採り入れたのは星野派独自のことで、藩内では依然として浅見一無斎の系統の伯耆流の方が多数派であった(藩校の師役の人数による比較)。
 星野家の道場では伯耆流居合術と楊心流薙刀術と四天流組打を教えており、これら三つ全部ではなく選択して学ぶことも出来たが、三芸全てで皆伝を受けないと星野家の道場では皆伝者と認められなかったという。

第七代の星野龍介実寿(角右衛門の養子)も、角右衛門死去により流儀を継承した後の文化元(1804)年、岩国の片山家に入門し、片山友猪之介と、その高弟から片山伯耆流を学び(途中で龍介が大坂へ弟子を訪ねて行った期間を除くと実質約1ヶ月半)、「序目録」「二刀崩」「小木刀」などの目録を受けたほか、後学の為にいくつかの奥儀の形の演武の見学や、学んでいない小具足についても一部の形(「柄留」と「腰廻」)を絵目録を参照しながらの見学と質問が、特別に許されている。
*星野龍介が岩国で学んだ内容は免許や準免許に至っていないが、目録段階まで正式に学ぶことができたことになる。

 第八代の星野如雲実直に、久留米藩士・加藤田平八郎(数多くの他流試合をしたことで有名)や、調琴之助(柳河藩に楊心流薙刀術を伝えた人物)が楊心流薙刀術・鎖鎌術を学んだ。

 幕末に至り、星野九門実則(号・玉井)は、父より家伝の伯耆流居合術・楊心流薙刀術・四天流組打を学び、29歳にして三芸皆伝。他にも21歳で上野新陰流剣術の目録を受け、松崎流槍術ほか砲術、馬術にも通じた達人であった。
第七代の星野龍介と同様に、岩国に留学し片山本蔵久寿に片山伯耆流を学んだ。
 明治以後は四天流組打の師範としての活動が多くなる。
 明治10(1877)年に西南戦争で星野家の道場は焼失したが、明治15(1882)年に再建した。
*明治15年〜大正5年までに星野道場に入門した者は居合539人、薙刀術218人、組打3362人、茶道約300人におよんだという。
 維新以後、衰退していた熊本の武術を再興するために明治15年に振武会が結成された際には、星野九門は創立委員の一人として活動し、振武会講武所の体術と居合と薙刀の師範に選ばれた。
明治30(1897)年に武徳会熊本支部が開設されると、振武会は解散し武徳会熊本支部に合流した。
明治31(1898)年に、武徳会熊本支部の武術講習所が開設された際には、星野九門は柔術部取締の一人に選ばれた。
 明治35(1902)年には、旧熊本藩の柔術流派六流(竹内三統流・扱心流・四天流・楊心流・天下無双流・当理流)の統合を企画し、六流の師範7名(四天流のみ2名)の協議で六流統合の新しい型10本を制定し、肥後流体術と称した。(ただし、流派は解消されずそのまま存続した)
 明治36(1903)年、戸塚英美(戸塚派揚心流)、嘉納治五郎(講道館柔道創始者)とともに、最初の柔道範士に選ばれる。
また、明治43(1910)年には居合術範士号も授与される。

 大日本武徳会において全国の流派を統合した剣術と柔術の形を新たに制定することになり、星野九門が明治38(1905)年に柔術形制定委員に選ばれた。(委員長は嘉納治五郎、委員は戸塚英美と星野九門のみ、ほか委員補18名)
翌明治39(1906)年、嘉納治五郎が講道館で行われていた形を原案として提出し、その原案をもとに制定委員会による一週間の集中審議が行われた。
審議の結果、投技は原案より2本の技を差し替えたのみでほぼ原案通り、固技は原案に5本の技を追加して、投業15本・固業15本からなる「大日本武徳会柔術形」として発表された(ただし将来追加の可能性がある技として参考業8本の解説も付された)。嘉納は講道館でもこの形を「投の形」「固の形」という名称で採用した。
ただし、この時発表された形は乱取形であり、別に「真剣勝負ノ形」も制定されていたが、当身技そのものを秘伝としている流派が多いため、当身技を含む真剣勝負ノ形の公表には強い反対意見があったため発表は見送られた。しかし、嘉納は独断でこれを「極の形」として講道館で採用したため、後に大日本武徳会もこれを柔術形に含めることを追認せざるを得なくなった。
なお「極の形」については、嘉納が提出した原案では15本であったものが、審議の結果、20本になっている。
*これらの形は、現在でも柔道形の「投の形」「固の形」「極の形」として講道館で伝承されている。

 明治42年頃、道場の維持が困難であることから、矢野道場(竹内三統流柔術・剣術、新心無手勝流居合)、江口道場(扱心流体術)と協議して、三道場同時の閉鎖を考えるが、門弟らの反対により、閉鎖されなかった。
 星野九門の弟子に大野熊雄や吉澤一喜がいる。
 吉澤一喜は陸軍熊本幼年学校の教官時代に星野道場に入門し、星野九門・龍太親子に教えを受けた。柔道も強く、熊本でアメリカ人ボクサー相手に試合をして勝ったこともあった。
陸軍熊本幼年学校を退職後、大正2年に京都の大日本武徳会本部に移った。昭和15年には銃剣術範士号を授与されている。

 大正5(1916)年3月、73歳で死去。九門の子・星野龍太が第十一代となる。それ以前から星野龍太は陸軍熊本幼年学校の剣道師範も務めていた。

 昭和6(1931)年11月の昭和天皇の熊本行幸の際、星野龍太は四天流組打の「骨のあたり」「喉のうけ」「廻り腕」の3本を演武し、天覧に供した。
 昭和13(1938)年、星野龍太は、片山家最後の伝承者である片山武助を熊本に招き、片山伯耆流の指導を受けた。

 戦前より京都で大野熊雄や吉澤一喜がこの系統の伯耆流を指導し関西を中心に伯耆流が広まったことは前述の通りである。
昭和31(1956)年、全日本居合道連盟制定刀法が制定された際、大野熊雄と吉澤一喜が制定委員であったことにより伯耆流からも技が採用された(五本目「切先返し」)。また、吉澤一喜は全日本剣道連盟居合(制定居合)の研究委員にも選ばれ、こちらも伯耆流からも技が採用された(五本目「袈裟切り」)。さらに昭和55(1980)年の追加でも伯耆流の技が採用された(九本目「添手突き」)。

 第十二代の星野宣敏は大阪に移住し、関西で伯耆流を指導した。

 現在、兵庫県尼崎市で武徳塾を主宰する加納武彦(号・錬岳)を宗家として、前宗家・星野宣敏(故人)より皆伝を受けた、大阪市で神武館を主宰する庭田義穂、大阪府箕面市で北武会を主宰する財間俊一郎らの各師範が伝承している。

系譜
片山家星野家
初代片山伯書守久安初代
二代片山伯書守久隆二代
三代片山数馬久之
四代片山利介久義三代
五代片山本蔵務久星野角右衛門実員四代
関郡馬経貴五代
六代片山友猪之介久俊六代
星野龍介実寿七代
星野如雲実直八代
七代片山本蔵久寿九代
八代片山武助久道星野九門実則十代
星野龍太実重十一代
星野宣敏十二代
加納武彦十三代
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伯耆流の型

表の抜き(六本)

押へ抜   小手切   切付   抜留   突留   四方金切


中段の抜き(九本)

膝詰   胸之刀   追掛抜   返り抜   一乍足

向詰   切先返し   長廊下   四方詰


表五箇条(五本)

向之太刀   小手切   裏勝   押抜   磯波


裏五箇条(五本)

往合   還抜   左連   右連   追懸抜


応変八極(剣術・九本)

正眼   臥龍   左龍   虎乱

右発   左払   車   甲山

虎入


居合八極変(九本)

圓波   相合   飛乱   乱破

虎掻   浦之波   逆波   逆面鷹

浮舟


外之物(十二本)

(技名略)


(以下略)

楊心流薙刀術

(技名略)


四天流柔術

(技名略)


<参考文献>

友添秀則・和田哲也・梅垣明美
「片山流剣術伝書『幣帚自臨伝』に関する一考察」
 『香川大学教育学部研究報告 第1部』71号 1987年

和田哲也
「近世剣術における訪問修行に関する研究−片山家文書『星野記』について−」
 『武道学研究』20巻1号 1987年

和田哲也
「近世剣術における訪問修行に関する研究(2)−『肥後熊本星野龍助修行日記』について−」
 『武道学研究』21巻1号 1988年

和田哲也
「岩国藩における竹刀打込み稽古について」
 『武道学研究』21巻2号 19887年

和田哲也
「片山流剣術伝書に関する研究−片山家文書における伝書類について−」
 『日本武道学研究 渡辺一郎教授退官記念論集』 1988年 島津書房

中村民雄
「今、なぜ武道か 文化と伝統を問う」第43回 柔道の技の体系
 『月刊 武道』2006年7月号 日本武道館

国史大辞典編集委員会『国史大辞典』 吉川弘文館