×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


戻る

渋川流

注・・・赤字は、解説あるいは単なるツッコミです

渋川流について


 渋川流は、関口流を学んだ渋川伴五郎義方が開いた、柔術を中心に、居合、剣術、槍術、棒術からなる流派である。
関口流、渋川流ともに、江戸時代で著名な柔術流派である。
*渋川流については、既に江戸時代の文献に、体格に恵まれない者には向いていない流儀、との記述もある。

 義方は紀州出身とも大和出身とも伝えられ、16歳の時に関口流二代・関口氏業に関口流を学び、延宝8(1680)年、29歳で皆伝に達した。
皆伝に達した後、氏業に従い江戸へ行き、氏業の道場で師を補佐した。
天和2年(1681)、氏業が江戸を去るに当たって、真田伊豆守(松代藩主)に招かれ、半年滞在したのち、江戸に帰り、道場を開いた。
貞享2年(1685)には、内藤左京太夫(岩城平藩主)に招かれた。
元禄8年(1695)の大火で道場が焼け、高弟・弓場政賢(のちの二代目、渋川友右衛門胤親)宅に仮寓した。
元禄11年(1698)、江戸の芝切通しに道場・武義堂を開いた。
 この間に関口流の技を整理改編し、教え方を工夫して、渋川流と呼ばれるものになっていった。
*義方の弟子である井澤蟠龍が関口流抜刀術を開き、同じく弟子であった伊東義真が関口流伊東派柔術を開いたことから、義方自身は、渋川流とは称さず、関口流と称していたようである。
 義方は、大力の者にはそれを上回る力で、剣術が得意な者には剣で、というように相手の得意な分野で常に勝ちをおさめた達人であった。
その武名は高く、門弟千を数え、老中・阿部正武、土屋相模守(土浦藩主)、井上正岑(若年寄・笠間藩主)、加藤明英(若年寄・壬生藩主)、松平土佐守(山内氏・土佐藩主)、柳生俊峯(柳生藩主)ら大名にも教えていた。
義方には実子がなく、高弟・弓場政賢を養子にした。
宝永元年(1704)、53歳で死去。泉岳寺に葬られる。
その門下から、『武士訓』や『広益俗説弁』の著者として知られる井澤蟠龍(熊本藩に伝わった関口流抜刀術の開祖でもある)や、転心流を開いた岩本儀兵衛を輩出している。

 二代目を継承した渋川友右衛門胤親は、京都の出身で、渋川伴五郎義方の養子となったのは前述の通りである。
また、板倉重寛(奥州福島藩主)にも柔術を教えていた。
正徳元年(1711)、弟子の佐浪善四郎らが、楊心流の武光柳風軒の道場に他流試合を挑み、乱暴をはたらいた責任で、八戸藩江戸屋敷に身柄を預けられ、八戸へ移送され数ヶ月後に死去した。
*これ以後、渋川流では他流試合厳禁となった。

 三代目の渋川伴五郎資矩は胤親の子である。
伊藤東高フ門に学んで学識があり、理論面の充実をはかり、「柔術大意」を著している。
また、武義堂を麻布に移した。

 四代目の渋川伴五郎時英は資矩の子である。
教授体系と理論の両面を確立し、渋川流中興の祖といわれた。
武術のみならず学問にも明るく、「柔術大成録」などの伝書だけではなく、「薫風雑話」など多くの著述を残した。
享保年間には、久留米藩に招聘され、柔術を教授した。
*久留米藩では関口流という流名で伝わったことから、この時期でも、まだ渋川流とは称していなかったと思われる。
また久留米に伝わった系統から、明治初期に警視庁柔術世話掛となった久富鉄太郎を輩出した。

また、時英の門下から、極端な実戦主義をとなえ、忠孝真貫流を開いた平山子竜を輩出した。


 九代目の渋川英元は、武道専門学校の要請に応え、渋川家に伝わる伝書類を提出し、昭和20年(1945)以後、伝承を断念した。


広島藩伝渋川流について
 現在伝わる渋川流は、第三代の渋川資矩か第四代の渋川時英に学んだ森島求馬が広島藩に伝え、同藩で伝承された系統である。
この系統では、渋川伴五郎代喬を開祖としている。
*この代喬(ヨシタカ)というのは義方(ヨシカタ)を指しているようだが、この系統の渋川流は、開祖の義方ではなく三代目以降に学んだ森島求馬が広島藩に伝えたもので、このような表記になった理由は不明である。
 この系統は、森島が渋川流以外に多くの流派を研究していたこともあって、広島藩で盛んであった難波一甫流等の影響を受け独自の内容になっていった。
 明治初期に、この系統の第6代の大山善太郎が、広島から大阪に移住してからは、大阪で伝承された。
 大阪に伝わったのちも他流の影響を受けて、さらに内容が変化していったようである。
 現在、この系統の渋川流は、誠心館を主宰している水田益男が継承し、兵庫県尼崎市と大阪府守口市で教えている。
 この系統の渋川流の特徴は、猛烈な気合と、二刀を含む剣術・居合・棒術・薙刀術・鉄扇術・十手術・鎖鎌術など多彩な武器術を含んでいることと、複数の六尺棒で頸を拘束された状態から脱出する「棒抜け」の秘技が伝わっている(これは難波一甫流からの影響と思われる)ことである。

 また、この系統とは別系統の渋川流に難波一甫流と浅山一伝流を合わせて首藤蔵之進満時が江戸時代後期に渋川一流を開いた。首藤は広島藩内の安芸郡坂村に住んでいたが天保年間に伊予松山藩に仕官した。明治時代に首藤は松山と広島で渋川一流を指導した。渋川一流は現在も広島県で伝承されている。


系譜
初代渋川伴五郎義方承応元年(1652)〜宝永元年(1704)
二代渋川友右衛門胤親寛文3年(1663)〜正徳2年(1712)
三代渋川伴五郎資矩元禄3年(1690)〜宝暦13年(1763)
四代渋川伴五郎時英享保5年(1720)〜寛政9年(1797)
五代渋川伴五郎輔元宝暦13年(1763)〜寛政12年(1800)
六代渋川伴五郎英中天明5年(1785)〜天保8年(1837)
七代渋川伴五郎英実文政9年(1826)〜明治11年(1878)
八代渋川玉吉明治6年(1873)〜大正13年(1924)
九代渋川英元明治33年(1900)〜?
戻る