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本體楊心高木流

注・・・赤字は、解説あるいは単なるツッコミです

高木流について


 正称は本體(体)楊心高木流。高木流、高木楊心流とも呼ばれる。伝書には「本體楊心高木流」と記されているが、最初の「流」は読まない慣例となっている。
柔術、棒術(六尺棒)、半棒術(三尺棒)を中心として、剣術、薬法(毒殺法も含む)などを含む流派である。
 「楊心」とあるが、秋山四郎兵衛が開き、九州を中心に全国にひろまった楊心流や、三浦揚心が開いた揚心流(秋山四郎兵衛の楊心流と区別するために揚心古流とも呼ばれる)とは全く関係が無い流派である。(系統としては竹内流系の流派である)
 また起倒流の重要な理念に「本體」があるが、起倒流との関係は確認されていない。
流派としての特徴は、柔術でも武器術でも同じ体捌きで動くようになっており、その体捌きであらゆる武器を扱えるとしていることである。個々の武術別に見た特徴は、柔術は、組み合うと体格の大きな方が有利であるという教えから組み合うことを禁じ、当身で崩し関節の逆をとること(トドメに当身を入れることもある)であり、棒術は、比較的細い棒を鋭く使い(太い棒をたたきつけるように使うのではなく)、棒を縦方向に振り、横方向にはあまり振らないことであり、剣術は、通常より剣の位置が高い正眼の構えから始まり、身を沈めあごの真下から上に突き上げ、もしくは切り上げる体勢にもっていく形が多いことである。


沿革(文中敬称略)

創流以前
 伊達政宗の重臣・片倉景綱の家臣の子・稲富右門は、佐竹氏の家臣・武藤段右衛門より武藤流の槍術と小太刀を学び、殺された父の仇を討った後、亡父の「楊木は強く、高木は折れる」との教えから高木折右衛門と名乗り、廻国修行の旅に出たと伝えられる。
 美作(岡山県北部)の津山で、当時、津山藩主であった森家の家臣・高木馬之輔は折右衛門に師事し、寛文11年(1671)16歳にして極意を授けられたと伝えられる。
*高木折右衛門、高木馬之輔両者共に高木姓を名乗っているが血縁関係は無かったとされる。また高木馬之輔については、高木流に伝わる伝承でも日向国延岡の農民の子とする伝承と森家の家臣であった高木加兵衛の子とする伝承とがある。これについて山本義泰は、延岡の農民の子として生まれたが何らかの形で故郷を出て、津山で高木加兵衛の養子になったと推測している。
*一般に流布している武道史の本などでは、高木折右衛門以前に「伊東紀伊守−高木折右衛門」、あるいは「僧・雲竜−伊東紀伊守−高木折右衛門」となっている伝系図を掲げているものが多いが、私個人の見解としては、 伊東紀伊守が開いた建孝流槍術の三代目に高木刑部左衛門という人物がいるので、これと高木折右衛門を混同したものが広まったのだと思う。
*高木流の伝承では、その後の高木折右衛門については何も伝えていないが、宮城県刈田郡に高木折右衛門の墓と伝えられるものがあることから、これを信ずるなら、故郷である奥州(東北地方)に帰ったことになる。
 馬之輔は折右衛門から受け継いだ技に素手の技(体術)を加え、体術・棒術・槍術・薙刀術・鉄板投術(手裏剣術の一種か?)を教えていたとされるが、このころの馬之輔の技は自分の恵まれた体格(伝えられる限りでは身長6尺8寸とされる)と大力に頼る傾向があったとされる。馬之輔の大力については、廻国修行中に農民が集団で動かせなかった2百貫(約750kg)余りの大石を一人で運んだという逸話が伝えられている。
 そんな馬之輔にとって大きな転機だったのは、藩主・森長継の前で行われた竹内流三代目・竹内久吉との御前試合であった。この試合は江戸時代の講談にもなっている。
 馬之輔は小柄な久吉を侮っていたが、結果は2度立合い、2度とも馬之輔が敗れた。この後、馬之輔は自らの慢心を悟り、久吉に入門し竹内流を学んだ。
*現在の高木流の形にも竹内流と同じ名前のものがあり、その影響がうかがえる。

創始
 竹内流を学んだ後に、力が年齢と共にいつかは衰えるということを覚った馬之輔は、工夫すること数年、氏神に参籠すること百日で、「雪を戴く楊(柳)の枝」を夢想し、工夫を重ね本體楊心高木流と称したという。
*この「雪がつもった柳の枝」から、柳のように力を受け流すということを悟ったという話は、柔術諸流派の創始伝説によく出てくる定番のパターンではある。この伝説と前の高木折右衛門の名の由来の伝説とで重ねて「楊のような柔」が強調されていることに留意すべきと思われる。
*高木馬之輔が本體楊心高木流の実質的な開祖だが、その師・高木折右衛門を初代、高木馬之輔は二代と数える慣例になっている。
 その後、馬之輔は義弟(血縁上は甥)の高木八郎左衛門(のちの高木有誰軒無関。有誰軒流槍術(無関流槍術)の開祖。高木流槍術を小浜藩に伝えた)とともに津山藩を致仕し、妹婿がいた伊勢国(三重県)宮野村に移り、そこで参禅修行をした後、廻国修行の旅に出た。
 元禄8年(1695)、近衛家の武芸六芸の指南となり、関白より「武士頭領・侑門院別当力士」の称号を授かったとされる。
*近衛家といえば、公家でも最高の家格である五摂家の筆頭とされる家である。そのような家格の公家が果たして武芸の指南役など抱えるのか疑問ではある。
宝永6年(1709)には江戸にいたと伝えられる。
そこから尾張に移り、尾張藩の付家老・成瀬家で指南をした(一時的に仕官したとする説もある)のち、京都に移住した。
 この間、立ち寄った先々で武術を教えた。加賀藩の格外流槍術(「格外」は馬之輔の号)、尾張藩の高木流槍術や、土佐藩の高木流槍術(幕末の志士の那須信吾も学んだ)はこの間に教えたものが、各藩に伝わったものである。(土佐藩には、これとは別に、体術のみ伝わった系統や、十二代・大国鎌治の弟子から伝わった高木流など、数系統の高木流が伝わっていた)
 馬之輔は剣術の腕も知られ、江戸中期の達人であった渋川流柔術第四代・渋川時英をして、その伝書の中で「高木馬之輔の太刀」を評価しているほどであった。
享保元年(1716)4月、61歳で死去。法号は格外不磨一化居士。妙心寺の塔頭・桂心院に埋葬された。

九鬼神流との合流
 本體楊心高木流を継承した高木源之進(馬之輔の長男)は、若狭(福井県西部)の小浜藩に召し抱えられた(叔父の高木八郎左衛門が小浜藩に仕えているので、それを頼ったのかも知れない)が、緊縮財政政策により浪人し、その後、播磨(兵庫県の瀬戸内海側)の姫路藩(当時の藩主は本多家)5百石で召し抱えられた。
 源之進は父・馬之輔と同じく大力の持ち主で、榎の木に指先で銭を押し込むと銭が木の幹にめりこんだという逸話が伝えられている。
本多家に仕官後、源之進は九鬼神流を編み出した大国鬼平と体術と棒術の試合をした。結果は、体術の試合では源之進が勝ち、棒術の試合では鬼平が勝った。
この試合以後、源之進と鬼平は互いの学んだ技を交換しあった。
そして、両流派の合併は進み、高木流の体術・剣術と、九鬼神流の棒術・半棒術とを合わせた流派となり、体捌きの共通化が図られた。
現在の高木流に伝わる九鬼神流棒術に、棒を捨てて素手で刀を持った敵を抑える形があるが、これは九鬼神流にかつてあった体術の名残かもしれない。
*裏を返せば、高木流の棒術・槍術と、九鬼神流の体術・剣術を捨てたことになる。
*九鬼神流は、播州(播磨)の赤穂出身の大国鬼平が編み出した。鬼平は薙刀の名手で、氏神に祈願をかけたところ、満願の夜、「9匹の鬼と薙刀で闘ったが薙刀の刃を折られ、残った薙刀の柄で鬼を倒した」夢を見、九鬼神流棒術を開いた、と伝えられる。
しかし、流派名は本體楊心高木流のままである。また、この頃、源之進は体術を柔術と改称した。
 そして、源之進は鬼平を後継者とした。これ以後、本體楊心高木流は大国家によって受け継がれてゆく。

 高木流と九鬼神流とを合わせた技を受け継いだ大国鬼平は赤穂藩(藩主・森家)に召し抱えられた。
これ以後、本體楊心高木流は赤穂藩で伝承されていった。
*この当時の赤穂藩の藩主家は森家である。これは高木馬之輔が仕えていた森家の断絶により、既に隠居していた津山藩第2代藩主・森長継(馬之輔が仕えていた時代の津山藩主)が立藩した備中(岡山県西部)の西江原藩が赤穂に転封したものである。つくづく森家に縁がある流儀だと思う。
また、この頃に佐賀藩の伊万里の郷士・岩永源之丞が、楊心流(秋山四郎兵衛が開いた楊心流)を学んだ後、廻国修行中に赤穂で大国鬼平から本體楊心高木流と九鬼神流を学び皆伝を受けて佐賀に帰り、宝暦3年(1753)に心月無想柳流を開いた。

心月無想柳流について

前述のように、心月無想柳流は佐賀藩の伊万里の郷士・岩永源之丞正光が、父より柳生新陰流剣術を、古賀重太郎より楊心流柔術(秋山四郎兵衛を開祖とする楊心流)を学んだ後、廻国修行に出て赤穂で大国鬼平から本體楊心高木流と九鬼神流を学び、皆伝を受けて佐賀に帰り宝暦3年(1753)に各流の長所を摂って開いた流派である。柔術・剣術・棒術・小薙刀術からなる。
*高木流では半棒術(九鬼神流半棒術)として伝えられている内容が、心月無想柳流では小薙刀術となっている。
心月無想柳流は肥前の伊万里・須古地域の郷士・農民層を中心に伝承された。
佐賀藩は上級家臣の知行地が「邑」と呼ばれたが、このうち、武雄鍋島家が知行する武雄邑の邑校「講武所」で幕末に岩永伝之丞が心月無想柳流柔術を教えていた。(現在の心月無想柳流が佐賀藩の御留流と主張しているのは、この武雄邑でのことを佐賀本藩での指南と誤認しているものと思われる)現在は、武術の流派として残っているほか、長崎県平戸市の旧北松浦郡地域の島嶼部の郷土芸能の杖術としても残っている。
*現在では高木流と心月無想柳流の内容は同じとされるが、これは戦前に心月無想柳流の第九代・岩永源一が高木流第十六代・角野八平太の高弟・脇田正市に高木流を学んだことと、心月無想柳流を高木流の加納武彦が継承した(心月無想柳流第十一代宗家)ことが影響している可能性がある。


 第十二代の大国鎌治英俊の代の文政元年に、土佐藩の高木流槍術家・清水善平が、小浜藩の高木流槍術師家に留学に行く途中(帰る途中かも?)に訪れて高木流柔術を学び、土佐藩に伝えた。
*前にも書いたが、この高木流槍術は本體楊心高木流柔術と同じ系統の流儀であり、清水善平が向かった小浜藩の高木流槍術は、高木馬之輔の甥の高木有誰軒が伝えた系統である。
*清水善平が土佐藩に伝えた系統の高木流では柔術を体術拳法と称し、体術拳法以外に鉄刀術、鎌術も伝えられていた。
また、伊予史談会文庫に収められている剣術の廻国修行の英名録『撃剣試合覚帳』の中の文政10年(1827)前後の中国・四国・九州地方の廻国修行の英名録部分である『撃剣名録』に「播州赤穂郡 高木流 大嶋貞輔」と記されており、文政年間には(この大嶋貞輔のみかもしれないが)高木流の剣術が、形稽古のみの現在と異なり防具と竹刀を用いて稽古されていたことがわかる。

幕末以後
 第十三代を継いだ八木幾五郎は、尚歯会のメンバーと文通をしていたことから蛮社の獄に連坐して天保12年(1841)に赤穂藩を追放となり、明石城下で道場を開いた。
旅人を困らせていた野犬を、八木幾五郎がおでんの串1本で退治したという逸話が伝えられている。
 八木は藤田藤五郎石谷武甥石橋某に流儀を伝えた。
三名とも、新たに技を編み出したことにより、本體楊心高木流は藤田伝、石谷伝、石橋伝(石橋高木流)の3つの系統に分かれて伝承され飛躍的に発展していった。
この3つの系統それぞれに独自に編み出した技があったとされるが、一般には古伝のままの本體楊心高木流を教え、流儀を継承するような人物のみに独自の技を伝授していったようである。
 この三人のうち、石橋伝を創始した石橋某は、某とあるように、名は伝わっていない。甘酒屋であったという。
甘酒屋でありながら、二杯飲むと体に毒だと言い、二杯目は売らなかったことから「大蔵谷の甘酒」と呼ばれ、変人扱いされていたと伝わっている。この人物は弟子をとらず自分の子のみに教えたとされる。
八木幾五郎の代に明治維新を迎える。

ここからあとは、石谷伝の系譜に従って書いてゆく。

 第14代を継いだ石谷武甥は姫路、神戸、岡山などに道場を持ち、大いに隆盛した。
明治35年(1902)11月に出版された『日本武術名家伝』には、明治30年代に神戸市に尚武館という高木流の道場(道場主・松本吉蔵)があったことが記されている。

石谷武甥が大坂相撲の大関・大筒を投げ伏せたという逸話があり、中極意の技のひとつである「強勇捕附け」が得意技であったと伝えられる。
明治42年(1909)、高弟・高松由吉(高松寿嗣の父)の家で死去。

 第15代を継いだ石谷松太郎は石谷武甥の子であるが、どういうわけか出奔し秋山要太郎より九鬼神流を学んだという。
これにより、石谷武甥の高弟・角野八平太が第16代を継いだ。

 第16代を継いだ角野八平太は新たに技(角野伝)を編み出した達人であり、本體楊心高木流だけではなく専当一心流柔術も継承していた。
また神戸に第一〜第三楊武館を置き、それぞれ流儀を伝承していくよう制度を整えた。
昭和10年、鹿島神宮、香取神宮での奉納古武道大会で本體楊心高木流の演武をした。
昭和14年、死去。

 角野八平太の高弟のうち、皆木三郎筒井友太郎が傑出していた。
皆木三郎が兄弟子であったが流儀の継承を筒井友太郎に譲り、「兄弟子の自分がいたのでは、やりにくいだろう」と独立して普門楊心流を開いたという。

普門楊心流と皆木三郎

 皆木三郎(号 虚舟)は昭和8年に免許皆伝を受けた後、東京の牛込に道場を開き数々の武勇伝を残した。
角野八平太の死後、宗家の継承を筒井友太郎に譲り普門楊心流を開いたのは前記の通りである。

 普門楊心流を開いた皆木三郎はそれまでの伝統的な形の内容を独自の構想で再編した。
具体的には、技を十種類の取り口(状況)に分類し、
各取り口に対応した投技を十本選び、「投の形」に、
各取り口に対応した関節技を十本選び、「逆の形」に、
各取り口に対応した投技と関節技が融合した技を十本選び、「奥の形」に、
・・・というように非常にわかりやすい体系に整理した。
(つまり、投・逆・奥というように技法別にタテに分類されているだけでなく、それぞれの形の一本目は片手を取られた状況に対応するようになっているというように、対応する状況によるヨコの分類がなされているというマトリクス図のように配列されているのである)

普門楊心流の内容は、
・皆木三郎が高木流から再編した柔術(逆・投・奥・古伝表形・楊心・短刀捕・太刀捕)
・九鬼神流棒術から選び出した棒術十本(これには手を加えていないようである)
・皆木三郎が編み出した小太刀術
・皆木三郎が、自分が編み出した小太刀の理合を基に、再編した半棒術十本
からなる。(後に皆木三郎から継承した井上剛によって、皆木三郎が行っていた居合を井上剛がまとめた居合が加わった)

 終戦後は、神戸に帰り、接骨院と道場を開いた。
その後一時期、本體楊心高木流に戻ったが、その後、本體楊心流という名で独立した。
皆木三郎は、石を素手で打って砕くのが得意であったと伝えられる。
昭和63年死去、神戸市の須磨寺に埋葬される。
 本體楊心流は、井上剛が継承し、兵庫県西宮市の本部を中心に海外9ヵ国に支部を持つまでに成長している。


 第17代を継いだ筒井友太郎は、皆木三郎とは対照的に古伝のままの高木流を伝えた。
また、専当一心流柔術・杖術、神変自源流居合をも継承していた。
戦後、神戸市で接骨業を営む傍ら道場を開き(財)日本武道館主催の日本古武道演武大会で演武した。
昭和58年11月病没。

 また、祖父より高木流柔術を学んだ明石出身の藤谷昌利は、谷長治郎や摩文仁賢和より糸東流空手道を学び、高松寿嗣や藤田西湖より様々な流派の古武道を学び、藤谷派糸東流拳法空手道を開いた。

 現在、第一楊武館の流れを汲むと思われる楠原重義が専当一心流、神変自源流居合も継承し神戸市長田区で、第三楊武館の系統を継承し高木流だけでなく熊本藩伝の伯耆流星野派居合術も継承し、広島藩伝の渋川流の皆伝をも受けた加納武彦に学び、心月無想柳流を継承した岩永源三郎が尼崎で、それぞれ道場を開いている。
また、皆木三郎が高木流を現代風に改良した本體楊心流は、西宮市に本部道場があるのは前述の通りである。
 高木流から分かれた心月無想柳流については、柳流の第九代・岩永源一の弟子である川村八朗も西宮市で教えている。

*九鬼神流を神代からの古伝と称し「神代文字で書かれた伝書」を作成している怪しげな系統が存在するが、この主張の論拠としているのは九鬼家に伝わっていたと称する偽書『九鬼文書』に高木流の伝書そのままの内容が記されていることである。
 この『九鬼文書』は大正時代に九鬼隆治が設立した宗教団体「皇道宣揚会」の教典とされたもので、現在でも教典または教義の参考書として使っている古神道系宗教団体があるようだが、「エヂプト」だの「伊恵須」(イエス)などといった明治以降に使われた用語の怪しげな記述のある文献で古文書というにも値しないものである。
問題の武術篇の成立には高松寿嗣が関わったともいわれる。
 だいいち、九鬼家の家伝の流儀は九鬼神流ではなく、三田藩第8代藩主・九鬼隆邑より明治時代の九鬼隆輝まで伝えられた起倒流九鬼派である。


系譜
初代高木折右衛門重俊寛永2年(1625)〜正徳元年(1711)
二代高木馬之輔重貞明暦2年(1656)〜享保元年(1716)
三代高木源之進英重?〜元禄15年(1702)
四代大国鬼平重信貞享元年(1684)〜享保20年(1735)
五代大国八九郎信俊生没年不詳
六代大国太郎太夫忠信生没年不詳
七代大国鬼兵衛良定生没年不詳
八代大国与左衛門良貞生没年不詳
九代中山甚内定秀生没年不詳
十代大国武右衛門英信生没年不詳
十一代中山嘉左衛門定賢生没年不詳
十二代大国鎌治英俊生没年不詳
十三代八木幾五郎久喜生没年不詳
十四代石谷武甥正次弘化2年(1845)〜明治42年(1909)
十五代石谷松太郎生没年不詳
十六代角野八平太明治8年(1875)〜昭和14年(1939)
十七代筒井友太郎明治39年(1906)〜昭和58年(1983)

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本體楊心高木流の形

表之形(重之形)

 表十三本・各技につき裏技三本 計五十二本

霞捕   洞返   搦捕   片胸捕   両胸捕

虚例  追掛捕  戒後砕  行違  拳流  膝車  唯逆  乱勝


体之形

 十五本

腰車   四ツ手   四ツ手崩   雲居返   腕流

鵲   引違   刑頭   腰折   両手止

水流   柳雪   瓢墜   鞆捕   氷入


調之形

 表十五本・各技につき裏技二本 計四十五本

梅吐   車返   天返   流捕   山落

鞆嵐   袖車   両手懸   膳砕   未落

体砕   霜楓   逆捕   乱風   風折


無刀捕之形

 表七本・各技につき裏技二本 計二十一本

奏者捕   一文字   柄落   向捕   廻捕   後捕   沈捕


大小捌之形

 表十四手・裏三十手 計四十四手

柄砕   引捕   入捕   乱獄   抑骨

潮返   掛落   小手止   車投   四ツ手刀

刃結   透捕   掬捕   横刀


剣術

 

(技名略)


九鬼神流棒術

 二十三本

柴潜   一本杉   外シ   瀧落   虚空

傘之内   太刀もぎ   払ヒ   顧ル  小手付け

向詰   開キ   繋ギ留   附入   五輪砕

前廣   両小手   浦波   左右   差合

船張   鶴一足   五法


九鬼神流半棒術

 六本

胸打  小手止  十文字  穂詰一本  柴打  乱レ打


目録

翼攻嵐  手拭〆  下駄之使方  面部之中  両手懸

五寸縄掛方  三寸縄  出血止  大小手型  妖怪見

鉄条扱  活之入方  真ノ衿〆  誘之活


中極意

(内容略)


極意

(内容略)


免許

(内容略)



<参考文献>

山本義泰
「高木流体術について」
 『天理大学学報』第142輯 1979年

黒木俊弘 『肥前武道物語』 1976年 佐賀新聞社

榎本鐘司
「文化文政期の西南地方における剣術他流試合の動向
 −伊予史談会文庫『撃剣試合覚帳』の分析を中心に−」
 南山大学紀要『アカデミア』自然科学・保健体育編3 1987年

森本邦生
「無雙神傳英信流の研究(1)
 −土佐の武術教育と歴代師範及び大森流の成立に関する一考察−」
 『広島県立廿日市西高等学校研究紀要』第11号 2002年

杉江正敏
「近代武道の成立過程に関する研究
 −名古屋版『日本武術名家伝』の分析的考察−」
 『武道文化の研究』 1995年

今村嘉雄ほか 編 『日本武道全集』第6巻 1967年 人物往来社

綿谷雪・山田忠史 編 『増補大改訂 武芸流派大事典』 1978年 東京コピイ出版部
今村嘉雄ほか 編 『日本武道全集』第6巻 1967年 人物往来社